輸送力をもつ岩崎は、10隻の汽船代金300万円を支出してほしいと申し出ます。
政府の財政は火の車でしたが、断れば、すでに長崎で待機している将兵や弾薬を台湾へ送れなくなって、大久保・大隈はその責任を問われることになります。
やむなく大久保は、岩崎の要求に応じます。
こうして政府御用を引き受けた三菱は、政府の命令書を受け取るとともに、"海運担当約定"を結びました。
その第7条にこう明記されています。
"無事の時に在りては、お預かりの汽船をもって、人民輸送の便を広大にし、さかんに回航の利を開くは、すでに当社に許可を賜うものとす"
・・・この契約によって、三菱は400万円相当の汽船を取り込んで自由に使うことができました。
それは弥太郎の強引さに政府が負けたことを意味しています。
なにぶん明治新政府の高官は武士上がりで、とんと経済に弱かったのです。
明治8年5月、海運三策が大久保の手によって閣議に提出され、政府は以来、積極的に民間海運会社を保護育成することになりました。
政商となる道を選んだ弥太郎は、前年6月に本社を大阪から東京の南茅場町へ移して、いよいよ政治の中枢部へ食い込んでいきます。
台湾征討で、兵員の輸送を引き受けた三菱商会は、船は手に入れるわ、政府と契約して毎年25万円の補助金はもらうわで、一ぺんに桜花燗漫といった好景気がやってきました。
明治8年6月、政府勧告という止めを刺されて、日本国郵便蒸汽船会社は解散の日を迎えます。
その所属船舶を総額32万5千円と見積もった政府は、これを買い上げて会社の清算をすませました。
三菱はそのうち18隻の船と倉庫、海運施設などを引き継いだばかりか、副頭取の川崎正蔵以下の社員と船貝も引き受けます。
その結果、三菱は所属船舶40余隻を数える日本最大の船会社に急成長。
しかも政府という協力な後ろ楯をもっているのですからこんなに強いことはありません。
そこで上海に向かう海外航路を開いて、一段と飛躍を試みたのです。