2010年12月アーカイブ

弥太郎は、どうも運動神経がなかったとみえて学問を志しました。


20歳の頃、藩士奥宮ぞう斎の従者となって江戸へ行く機会を得ました。


弥太郎はぞう斎の供をして日本一の大都市江戸へ赴きました。


安政2年(1855)のことでした。


江戸で高名な安積艮斎の門へ入りました。


けれど入門して間もなく、郷里から急報が届きます。


父が入獄したというのです。


驚いた弥太郎は、師に別れを告げて土佐へ旅立つことになりました。


弥太郎は、不眠不休で東海道五十三次を踏破。


そして土佐の井ノロ村まで300余里を17日間で歩いて実家へ戻りましたが、母の話によると、庄屋に憎まれていた父は庄屋宅の宴席で袋叩きにあって帰ってきたといいます。


そこで口惜しさのあまり郡役所へ訴え出ると、庄屋が手を回していたとみえて、反対に弥次郎は牢へ入れられてしまいました。


弥太郎は翌日から郡役所へ出かけていって抗議します。


すると役人を誹誘したといって、父のかわりに今度は弥太郎が入牢させられてしまいました。


獄中で正月を過ごした弥太郎は、出牢後、高知城の郊外で寺子屋を開きました。


その頃、藩の執政だった吉田東洋が酒癖の悪い藩主の一族をたしなめたことから、役を退いて、少様塾を開いていました。


この吉田の塾に学んでいたのが後藤象二郎で、弥太郎は、後藤の論文の代筆をして東洋に近づきました。

3代目彦弥太は、弥太郎直系の孫として三菱5代目社長の椅子を約束されていましたが、敗戦による財閥解体、公職追放令によって追われてしまいました。


4代目の当主は、昭和5年生れの岩崎寛弥です。


弥太郎にそっくりの風貌といわれていますが、昭和28年東大経済学部を卒業して三菱銀行に入り、取締役を務めていました。


将来の頭取として、また三菱グループ総帥として、まわりの期待を集めているとのことです。


そこで創業者の岩崎弥太郎を取り上げてみましょう。


住友、三井は江戸時代からの富商でしたが、三菱は明治になってから台頭した新興勢力です。


この三菱の創業者岩崎弥太郎は、天保5年(1834)12月、土佐の国(高知県)安芸郡井ノロ村一の宮に住む地下浪人岩崎弥次郎と、その妻美輪との間に生れています。


地下浪人というのは、郷士の株を売った者のうち、40年以上郷士であった人に与えられる称号で、実際は名前ばかりで、禄高もゼロなら、何らかの職につける望みもほとんどありませんでした。


そこでわずかな農地を耕して飢えをしのいでいました。


何しろ7人家族に手拭いが2本、傘などなくて、冬になると、破れ布団1組を弟弥之助と引っ張りあって眠るという貧乏暮らしだったのです。


地下浪人や郷士といった身分の子弟は、最下層の武士階層を脱出しようと思うと、剣を習って、師範となるか、あるいは学問を修めて人の師となり藩から招かれるかで、いずれにせよ技芸をもって存在を認められなくてはならないのです。

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