2011年1月アーカイブ

明治2年、弥太郎は、少参事に任じられます。


一介の地下浪人から出世して、いまや土佐藩の大坂藩邸を取り仕切るまでに出世したのです。


弥太郎は藩の大坂代表としてかなりの権限を任されることになりました。


明治2年になると、新政府はこんな通達を出します。


各藩が直営してきた藩営の事業は、民営企業を圧迫するからすみやかに廃止するように、というのです。


・・・しかし、そんなことをすれば莫大な藩債を償還できなくなって、藩の財政は破綻してしまいます。


そこで土佐藩は、大坂土佐商会を、民営事業のように偽装しようとしました。


明治3年10月、土佐商会を"土佐開成商社"と改称しようとしますが、それでは藩の匂いが強すぎると後藤達が言うので、"九十九商会"とすることになりました。


しかし九十九商会を完全な私企業であるとは、世間はみてくれませんでした。


表向きは私企業でも、裏では藩の紐つきとみていたので、もう一度改名して三ツ川商会とします。


やがて廃藩置県が迫ってきました。


弥太郎は、廃藩置県の大号令が発せられると、その日の相場で、政府が藩札を買い取るという情報を、後藤からキャッチしました。


そこでさっそく彼は行動を開始。


まず堺の金持ちから十万両の太政官札(天札)を借り受けると、その天札をもって、額面の3分の1から4分の1くらいの価格に下がっている土佐の藩札を買いあさったのです。

時は幕末の真っ最中でした。


土佐勤王党の盟主武市半平太の一党は、藩政を司っている吉田東洋を暗殺。


弥太郎は東洋一派とみられていました。


文久2年(1862)のことですが、この頃弥太郎は喜勢と結婚しています。


情勢はすこしも好転せず、弥太郎は郷里に引きこもりましたが、その間に郷士の株を手に入れていました。


そして弥太郎は川原の開墾を思い立ちます。


郷士が願い出れば許されるという特権を利用して、開墾に成功すると、ようやく家計をうるおすことができました。


その後、土佐勤王党が弾圧され、旧東洋派が浮上したため、藩庁から召し出されて、長崎にある土佐商会の主任を命じられます。


これは土佐藩の物産を外国へ売って、必要な汽船や武器を購入するためのいわば交易の窓口でした。


藩の執政となった後藤象二郎が長崎へやってきて、汽船や大砲を手当り次第に買っていったため、弥太郎はその尻拭いに走り回って外国商会から多額の借入れを行っていました。


当時、各藩は自藩の俊英を長崎へ派遣していたので、薩摩の五代才助(後の友厚)、肥前の大隈重信、長州の井上馨、伊藤博文などと彼は知り合うことができました。


弥太郎が借金に走り回っている頃、歴史の舞台は大きく変転して、徳川幕府が倒れて、明治新政府が誕生。


当時、長崎の土佐商会が大火で焼失したため閉鎖と決まって、弥太郎は大坂土佐商会へ移りました。

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