岩崎弥太郎は、明治6年(1873)になると、全従業員を商会の広間に呼び集めました。


「みなの者、よく聞いてくれ。今日から、"三ツ川商会"改め"三菱商会"とする。


そして従来、藩のものだった商会の財産と、今回改めて払い下げを受けた6隻の汽船をはじめとする11隻の船を用いて、海運業に身を挺することにいたす。


つまりわが輩は断然、官界と縁を切って一意専心、商法をもって身を立てる覚悟である」。


黒羽二重の紋付に仙台平の袴に身を固めた彼は、八の字に垂れ下がった口髭をふるわせつつ
吼えるごとくに叫びました。


・・・こうして海運業に挺身してみると、商船会社がいかに儲からないかがよく分かりました。


業界第1位の日本国郵便蒸汽船の運賃でいうと、東京~大阪間が食費つきで一人9両。


客は官吏か大商人に限られていました。


しかも半官半民の会社のことなので、この郵便蒸汽船はまことにサービスが悪く、人民を船に乗せてやるといった態度で乗客に臨んでいたからまことに不人気です。


そこで三菱商会は、親切第一をモットーとして、夏は団扇と氷水をサービスし、評判は尻上がりによくなっていきました。


むろんそうなれば相手も抵抗します。


向こうは半官半民のことなので赤字が出ても平気ですから、思い切ったダンピングをはじめました。


対抗して三菱が半額にすると、相手は3分の1に値下げしてきます。

その頃の弥太郎はまだ海運業をおのが本業とする決心がついていませんでした。


しかし、明治5年、三井・鴻池をはじめとする豪商が政府と結んでつくった半官半民の日本国郵便蒸汽船会社が発足すると、むらむらと持ち前の負けん気が頭をもたげてきました。


それに海岸線の長い日本沿岸の海上輸送がきわめて貧弱なのに目をつけた外国の商船会社が、あわよくば一手に独占してやろうというので、ぞくぞくと日本の海に乗り込んできました。


その情勢をみて大番頭の川田小一郎が進言しました。


「大将、向こうは日本政府や強国アメリカにイギリス、こちらは土佐藩の援助も表向きは受けられぬ三ツ川商会、これではとても太刀打ちできまぜんぞ」


石川七財が左腕なら、それより早くから弥太郎につき従っている川田小一郎は右腕、一の子分といってよかったのです。


その川田が、海運業界の現状を調査分析して、結論を導き出したのです。


「つまり川田、海運業はやめておけと申すのだな」


「はい、これは私だけでなく、石川も森田晋三も同意見でございます」


弥太郎は"左様か"ともいわないで、いきなり決心しました。


「よし、わしはやるぞ、いまに日本一の海運王になってみせるぞ」。


廃藩置県となれば、当然、藩主も藩政府もなくなってしまいます。


・・・ということは、藩吏としての弥太郎の身分もなくなることを意味しています。


さらに藩がなくなるのですから藩営の事業も廃止されます。


・・・となれば、わしも失業することになり、この三ツ川商会もいずれはやめなくてはならないことになる。


ではこれから何をすればよいのか・・・。


答えはひとつです。


独立して事業をはじめるしか道はありません。


独立して事業を営もうと思えば、何はなくともまず金が必要です。


大阪市西区西長堀の長堀川に架かった鰹座橋は、土佐名物鰹節にちなんだ命名で、この橋の両岸に、土佐藩の大坂藩邸がありました。


廃藩置県のため、弥太郎は、藩吏の職を失いましたが、士族の俸禄をもらっています。


それに藩札買い占めで資金もたっぷりもっていました。


そこで旧藩邸の大部分を買い取って、自己名義に改め、藩船夕顔と鶴の2隻を、いずれ藩債4万両分を弥太郎が引き受けるという条件で払い下げてもらいました。

明治2年、弥太郎は、少参事に任じられます。


一介の地下浪人から出世して、いまや土佐藩の大坂藩邸を取り仕切るまでに出世したのです。


弥太郎は藩の大坂代表としてかなりの権限を任されることになりました。


明治2年になると、新政府はこんな通達を出します。


各藩が直営してきた藩営の事業は、民営企業を圧迫するからすみやかに廃止するように、というのです。


・・・しかし、そんなことをすれば莫大な藩債を償還できなくなって、藩の財政は破綻してしまいます。


そこで土佐藩は、大坂土佐商会を、民営事業のように偽装しようとしました。


明治3年10月、土佐商会を"土佐開成商社"と改称しようとしますが、それでは藩の匂いが強すぎると後藤達が言うので、"九十九商会"とすることになりました。


しかし九十九商会を完全な私企業であるとは、世間はみてくれませんでした。


表向きは私企業でも、裏では藩の紐つきとみていたので、もう一度改名して三ツ川商会とします。


やがて廃藩置県が迫ってきました。


弥太郎は、廃藩置県の大号令が発せられると、その日の相場で、政府が藩札を買い取るという情報を、後藤からキャッチしました。


そこでさっそく彼は行動を開始。


まず堺の金持ちから十万両の太政官札(天札)を借り受けると、その天札をもって、額面の3分の1から4分の1くらいの価格に下がっている土佐の藩札を買いあさったのです。

時は幕末の真っ最中でした。


土佐勤王党の盟主武市半平太の一党は、藩政を司っている吉田東洋を暗殺。


弥太郎は東洋一派とみられていました。


文久2年(1862)のことですが、この頃弥太郎は喜勢と結婚しています。


情勢はすこしも好転せず、弥太郎は郷里に引きこもりましたが、その間に郷士の株を手に入れていました。


そして弥太郎は川原の開墾を思い立ちます。


郷士が願い出れば許されるという特権を利用して、開墾に成功すると、ようやく家計をうるおすことができました。


その後、土佐勤王党が弾圧され、旧東洋派が浮上したため、藩庁から召し出されて、長崎にある土佐商会の主任を命じられます。


これは土佐藩の物産を外国へ売って、必要な汽船や武器を購入するためのいわば交易の窓口でした。


藩の執政となった後藤象二郎が長崎へやってきて、汽船や大砲を手当り次第に買っていったため、弥太郎はその尻拭いに走り回って外国商会から多額の借入れを行っていました。


当時、各藩は自藩の俊英を長崎へ派遣していたので、薩摩の五代才助(後の友厚)、肥前の大隈重信、長州の井上馨、伊藤博文などと彼は知り合うことができました。


弥太郎が借金に走り回っている頃、歴史の舞台は大きく変転して、徳川幕府が倒れて、明治新政府が誕生。


当時、長崎の土佐商会が大火で焼失したため閉鎖と決まって、弥太郎は大坂土佐商会へ移りました。

弥太郎は、どうも運動神経がなかったとみえて学問を志しました。


20歳の頃、藩士奥宮ぞう斎の従者となって江戸へ行く機会を得ました。


弥太郎はぞう斎の供をして日本一の大都市江戸へ赴きました。


安政2年(1855)のことでした。


江戸で高名な安積艮斎の門へ入りました。


けれど入門して間もなく、郷里から急報が届きます。


父が入獄したというのです。


驚いた弥太郎は、師に別れを告げて土佐へ旅立つことになりました。


弥太郎は、不眠不休で東海道五十三次を踏破。


そして土佐の井ノロ村まで300余里を17日間で歩いて実家へ戻りましたが、母の話によると、庄屋に憎まれていた父は庄屋宅の宴席で袋叩きにあって帰ってきたといいます。


そこで口惜しさのあまり郡役所へ訴え出ると、庄屋が手を回していたとみえて、反対に弥次郎は牢へ入れられてしまいました。


弥太郎は翌日から郡役所へ出かけていって抗議します。


すると役人を誹誘したといって、父のかわりに今度は弥太郎が入牢させられてしまいました。


獄中で正月を過ごした弥太郎は、出牢後、高知城の郊外で寺子屋を開きました。


その頃、藩の執政だった吉田東洋が酒癖の悪い藩主の一族をたしなめたことから、役を退いて、少様塾を開いていました。


この吉田の塾に学んでいたのが後藤象二郎で、弥太郎は、後藤の論文の代筆をして東洋に近づきました。

3代目彦弥太は、弥太郎直系の孫として三菱5代目社長の椅子を約束されていましたが、敗戦による財閥解体、公職追放令によって追われてしまいました。


4代目の当主は、昭和5年生れの岩崎寛弥です。


弥太郎にそっくりの風貌といわれていますが、昭和28年東大経済学部を卒業して三菱銀行に入り、取締役を務めていました。


将来の頭取として、また三菱グループ総帥として、まわりの期待を集めているとのことです。


そこで創業者の岩崎弥太郎を取り上げてみましょう。


住友、三井は江戸時代からの富商でしたが、三菱は明治になってから台頭した新興勢力です。


この三菱の創業者岩崎弥太郎は、天保5年(1834)12月、土佐の国(高知県)安芸郡井ノロ村一の宮に住む地下浪人岩崎弥次郎と、その妻美輪との間に生れています。


地下浪人というのは、郷士の株を売った者のうち、40年以上郷士であった人に与えられる称号で、実際は名前ばかりで、禄高もゼロなら、何らかの職につける望みもほとんどありませんでした。


そこでわずかな農地を耕して飢えをしのいでいました。


何しろ7人家族に手拭いが2本、傘などなくて、冬になると、破れ布団1組を弟弥之助と引っ張りあって眠るという貧乏暮らしだったのです。


地下浪人や郷士といった身分の子弟は、最下層の武士階層を脱出しようと思うと、剣を習って、師範となるか、あるいは学問を修めて人の師となり藩から招かれるかで、いずれにせよ技芸をもって存在を認められなくてはならないのです。

弥太郎は、三菱商会前身の「九十九商会」創業の明治3年から同18年、共同運輸との死闘の最中に死亡するまで絶対的創業者として君臨しました。


当然その後は、弥太郎の女房役であった弥之助が継いで、同26年に三菱合資会社設立と同時に、弥太郎の長男久弥に受け継がれました。


久弥は大正5年、社長の椅子を弥之助の長男小弥太に譲っています。


以後、小弥太は、敗戦に至るまでの30年間、三菱グループの総帥としての地位にありました。


小弥太は「三菱中興の祖」と呼ばれています。


小弥太が全三菱に徹底させようとしたことがあります。


それは、「政治不関与の原則」でした。


政商を自他ともに認じた三菱の方針からいえば、大転換ともいうべきことでした。


軍や政府を相手に商売はしても、特定の軍人や政治家と親密につきあうことを厳に戒めたのです。


・・・いうまでもなく、軍人や政治家に深入りすれば、彼等が権力の座にいるうちはいいですが、彼等が力を失うとともに沈む・・・


いえ沈むくらいならいいですが、つぶされてしまうことも起こりうるからでした。


時代が激しくなれば、浮沈も激しくなる・・・。


大三菱を維持発展させていくためには、創業期とは違う原則が必要だったのです。


このことを、日本の敗戦、そして連合軍による占領、なかんずく財閥解体と公職追放政策によって、いやというほど思い知らされたのです。

周知のとおり、戦後日本の経済と産業は、六大企業集団によって牽引されてきました。


そのなかで三菱の占める割合は、さほどに大きいわけではありません。


売り上げでいえば、三菱は第5位にすぎないのです。


日本経済のなかで占める割合は、2.33パーセントです。


・・・にもかかわらず、三菱は、「日本の三菱・世界の三菱」です。


なぜなら、日本の企業集団のなかで、航空、原子力、造船、自動車、電気など重機械、戦車、戦艦、戦闘機など軍需生産、未来産業となる宇宙関連戦略産業に強いのは、三菱重工業を中核とする三菱グループ以外にないからです。


三菱は岩崎弥太郎、弥之助兄弟によって興されました。


兄は、遊び好きの喧嘩好き、しかし商売の勘は実に鋭かったのです。


一方、弟は、正反対の性格。


動と静、閃き行動派と沈思黙考型、カリスマ的リーダーである弥太郎に対し集団統御型オルガナイザーの弥之助。


創業期三菱は、2人の絶妙のコンビネーションによって発展しました。


三菱は、弥太郎・弥之助兄弟が、無一文から苦労辛酸を重ねてつくり上げただけに、三井、住友の番頭支配に対し、「岩崎家君臨主義」をとってきたといっていいでしょう。


北海道を取りまく三つの海のうち、私はオホーツクの海が一番すきです。


清らかな海浜の花で飾られた砂丘が、ここほど美しく静かに咲きほこっているところはありません。


その砂丘のかげに網走、能取、サロマ、コムケなど大小さまざまな、無数の海跡湖がねむっています。


それでいて海は荒っぽくて、底しれない深い色をしています。


怒りだしたら手がつけられないほどあばれまわります。


私は山のような波というものをはじめて見たのは、この海岸でした。


この海岸ほど古い時代から、随分いろいろな民族が、雲の影のように通りすぎたところはないでしょう。


斜里海岸の丘陵地帯にストーン・サークル(環状列石)を残して、どこに消えてしまったかわからない人々。


網走の洞窟や砂丘に冷たく屈葬の骨を埋めて眠っている、ビリケン頭で下顎の太いモヨロ族と呼ばれている人々。


それからハマナス咲く砂丘や湖底にまで、いたるところに竪穴を残して消えてしまった種族たち・・・。


どれ一つとして解明されることなく、多くの謎を残して消えてしまいました。


日本人がここに足跡を印したのはそれほど古いことではありません。


1808年の文化5年、択捉島を襲った露艦に備えて、津軽藩士100人がこの海岸を警備するために越冬しました。


しかし、寒さと食生活に慣れない人々は、壊血病におかされ、何とか無事だったのは僅か17人だけだったそうです。


流氷の山が押しよせて、氷に乗って来るアザラシを狩って生活することを知らない日本人の、とても冬越しのできるところではなかったのです。


北海道といえば札幌ツアーで札幌しか知らないという観光客のみなさんも、ぜひ一度はオホーツク海を見に行ってみてください。


きっと圧倒されることでしょう。

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